2013年の静寂の中で思い出した、2年前の「熱狂」

2013年。心血を注いで育て上げた会社を去り、私はまた一人になった。長年積み上げてきた安定した収益も、苦楽を共にした仲間たちとの濃密な日々も、一瞬にして手のひらからこぼれ落ちていった。その静寂の中で、私の脳裏に鮮烈に蘇ってきたのは、そのわずか2年前に起きていた、あのがむしゃらで狂気じみた「3ヶ月間」のことだった。

それは、2011年の夏。東日本大震災の余波が、日本のあらゆる製造現場を根底から揺るがしていた時期のことだ。未曾有の国難の中で、サプライチェーンは寸断され、昨日まで当たり前だったことが、今日からは当たり前ではなくなっていた。

きっかけは、一本の電話だった。
「……御社のホームページに載っている、オリジナル団扇。あれは、今でも作れるんでしょうか?」

最初は聞き間違いかと思った。うちは広告代理業と素材集サービスがメインだ。団扇はあくまで、かつて制作した実績の一つとして、隅の方に掲載していたに過ぎない。私は反射的に「ええ、作れますよ」と答えた。しかし、受話器から聞こえてくる相手の、絞り出すような、そしてどこか追い詰められたような声に、私は違和感を覚えた。

「本当ですか!?……実は、どこに問い合わせても、国内ではもう製造できない、材料がないと断られ続けているんです。もう、何十件も電話したのに……」

電話を切った後、私はすぐに状況を調べた。事態は想像以上に深刻だった。震災の影響による電力不足、そして製造工場の被災。夏の風物詩である「団扇」を作るための骨やの供給がストップしており、日本中から団扇そのものが消えようとしていたのだ。

海を越えた「仕組み」の開拓:週末は韓国、平日は日本

「日本で作れないなら、外に目を向けるしかない。」

私の思考は、即座に「どうやってこの空白を埋めるか」というビルダー特有のモードに切り替わった。理屈ではない。ただ「困っている人がいて、解決策がそこにあるなら、繋げばいい」という直感だった。営業企画の女子スタッフがPOPや印刷物の制作で接点のあった韓国の業者に当たった。

「韓国なら、日本とは形状が少し違うけれど、製造できるルートがあります。」

その一報を聞いた数日後、私はすでに仁川国際空港に降り立っていた。手にしたのは、現地の業者から手に入れたサンプルと、見積書。私はホテルのラウンジに戻ると、すぐに広告の価格設定を済ませ、Google広告(当時はアドワーズ)を入稿した。

その瞬間、世界が変わった。

広告が承認され、配信が始まった数分後から、注文が殺到し始めた。
「1万本欲しい」「イベントに間に合うのか」「サンプルを送ってくれ」

それまでほぼなかった団扇の注文が濁流にように押し寄せてきた。

もはや既存のオペレーションでは捌ききれない。
私は腹を括った。

それからの3ヶ月間、私の生活は「金曜の夜にソウルへ飛び、週末で業者の確保と納期、品質の調整を行い、月曜の朝一で日本に戻って指揮を執る」という、文字通りの二重生活へと突入したのだ。

「尋常ではない忙しさ」と、直面した「未熟さ」

当時の韓国製の印刷物は、今のクオリティとは比較にならないほど不安定だった。
「10万本の発注を入れたのに、2万本しか受けられない」
「届いた製品を開けたら、印刷の色が変色して半分が不良品だった」

トラブルは日常飯事だ。現地の業者が日本の窮状を察知し、団扇の持ち手(骨)の在庫を不当に買い占めて価格を吊り上げようとする「事件」まで起きた。現地の倉庫で怒鳴り合いのごとき交渉を行いながら、新たな、そして信頼できる業者を求めてソウルを現地のパートナーとともに走り回った。

一方で、納品に間に合わせるために、日本へ届いた製品の検品を自ら行ったこともある。
関空の国際郵便局の保税エリア。深夜、山積みになった段ボールを、職員の方に頭を下げて夜通し開けさせてもらった。一つ一つ、手作業で不良品を弾く地動な作業。そして翌朝、そのままトラックを走らせて、納品先である関東エリアまでノンストップで自走する。

眠気など、アドレナリンが消し飛ばしていた。ハンドルを握りながら、朝日が昇る高速道路で、私は「自分が泥を被ってでも、この仕組みを通すんだ」という、猛烈な執念に燃えていた。

営業マンのいない組織が1500万を叩き出した理由

驚くべきことに、私の会社には、一人も「営業職」という肩書きを持つ人間がいなかった。

基本的には全員がデザイナーであり、オペレーターであり、ディレクター。つまり、全員が「作る側」の人間、職人集団だった。表立って動き回るのは私と、営業企画の女性社員のたった二人だけだ。それ以外はすべて、私が長年磨き上げてきた「集客と制作の仕組み」だけで回っていた。

ホームページでの集約導線を整え、背後の制作チームは、押し寄せる膨大な受注情報の処理とデザインデータの作成、さらには納期管理を、日常のルーチンサービスを止めることなく正確に捌き続けた。
マーケティングチームも、刻一刻と変わる検索需要のトレンドに食らいつき、広告費を1円単位で最適化した。

無我夢中で、しかしどこかハイになった状態で走り抜けた3ヶ月の終わり、通帳に刻まれた団扇単体の売上額は、1500万円を超えていた。

新たな「連帯」:仕組みが魂を宿した瞬間

しかし、私が本当に手に入れた宝は、その1500万という数字ではなかった。

過酷な極限状態のプロジェクトを共に乗り越えたことで、私たちのチームにはそれまでの平穏な時期には決して生まれ得なかった、強固で熱い「連帯」が生まれていたことだ。

「自分たちが作ったもの、自分たちが繋いだものが、日本中の夏のイベントを支えている。」

その実感は、単なる利益以上の誇りとなって、チームの底力に変貌した。私が2013年に会社を去ることになったとき、最も苦しかったのは、この「仕組み」以上に、そこで育まれた「連帯」を失うことだった。

しかし、あの狂熱の夏に学んだことは、今でも私の血肉となっている。
「市場に空白があるなら、自ら道を作ればいい。技術とネットワーク(仕組み)さえあれば、人は何度でも立ち上がり、不可能を可能にできる。」

2013年の再出発。私は何も持たずにゼロになったが、あの夏に証明した「機動力」と「連帯を生む力」だけは、誰にも奪うことができない「ビルダーの魂」として、私の胸の中にあったのだ。


Founder Principles 5: Humans decide, agents execute. (人間が決断し、エージェントが実行する)

2011年のあの時、私がやったのは「韓国でルートを開く」という決断と、全体の調整だけだ。あとの膨大な実務は、当時の「現場という強力な仕組み」を持つメンバーが自律的に、かつ完璧に回してくれた。AI時代の今、そのパートナーは人間からデジタルエージェントへと変貌を見せているが、私の役割は変わらない。市場の歪みを見つけ、そこを通す道を決める。それがビルダーの仕事だ。